同志

10月15日付のブログでkainatsuさんとGTPのことについてお話ししたので、この2組と強く結びついて、K-mixにはなくてはならない存在だった、とある人のことについて今回はお話ししましょう。
北のまちの独裁者のことではなく、元K-mixパーソナリティ、廣木弓子さんのことです。

彼女がK-mixに新卒で局アナとして入社したのは2005年4月。奇しくも「K-mix 8×8」がスタートしたのと同じタイミングでした。「K-mix 8×8」はただ番組を放送するだけでなく、県内様々なところに出掛けて行き、イベントや公開録音を行うのが大きな特徴でした。したがって、その場を仕切るMCが必要になってくるわけで、廣木(今でも彼女を呼ぶ時は“呼び捨て”なので、この場でもそうさせていただきます)が入社して半年経過した頃から、ほとんど専属のように「K-mix 8×8」のイベント司会を担当してもらっていました。それは彼女とGTPやなっちゃん、そして岩木真也君、山口リサちゃん、ズータンズといった「8×8アーティスト」たちとの年齢が近かった、ということが大きな理由だったと思います。
それから15年弱経った今、アーティストとパーソナリティと、形は違えど「表現する者」という意味では同じ立場にいるRitomoさんと川﨑玲奈の同い年ふたりが、番組を通じてシンパシーを感じ合い、ともにイベントを行う仲になったことは、廣木とアーティストの関係を思い起こさせます。
同年代の互いに認め合う存在が近くにいる、というのはそれが異ジャンルであったとしても、何かのケミストリーを起こし、それがそれぞれの成長に大きく寄与する、というのは私の経験上、ほぼ間違いない真理だと思います。

 

廣木とはもう15年近くの付き合いですが、彼女と出会えたこと、そして彼女がいたからこそ起こってきた数々の出来事は、私のラジオマン人生の中でとても意味の大きいものだと思っています。一緒に様々なことを形にしてきた、という点でとても大切なパートナー、年齢は18歳も違いますが、私の中で彼女は「同志」と表現するに相応しい存在です。

廣木と初めて出会い、話をしたのは2004年初夏、彼女がK-mixのアナウンサー職採用試験の書類選考を通過し、一次選考を受験しにきた時です。この時点で受験者は20名程度に絞られていて、まず筆記試験が行われ、その後1人各10分程度の音声試験が行われます。4階の会議室に待機した受験者は順番にスタジオがある3階に降りてきて、アナウンス・ブースに入り、直前に渡されたフリートークやナレーション原稿読みの課題をこなします。当然緊張し、本来の実力を出せず、散々な状態でブースを後にする方もたくさんいます。

そんな中、廣木がスタジオフロアに登場した時、当時の私の上司だった編成制作部長が「なんや、ケッタイなカッコした、ちっちゃい子が来たで〜。」とまず声をあげました。

言い忘れていましたが、K-mixの採用試験、特にアナウンス職のそれは「リクルートスーツ不可。普段のカジュアルな服装で。」というドレスコードがあります。無個性のリクルートスーツに身を包んで来られるよりも、その人の日常や個性、センスを垣間見ることができる普段着の方が、選考の参考になるからです。とは言っても大抵の受験者は、女性ならばブラウスに膝丈のスカート、あるいはワンピースという“無難なスタイル”で現れます。
そんな中、廣木のファッションはと言えば、ブルーのアロハシャツにダメージ・ジーンズ、片耳にジャラジャラ・ピアス・・・というわけで、部長が声をあげたのも当然です。しかも身長は150cmに達していないと思われる小柄さ故に、逆にその存在感は際立っていました。

ブースに入った廣木は他の受験者とは明らかに異なり、とても落ち着いているように見えました(のちに本人から聞いた話では、心臓バクバクだったそうですが、そう見えないのがこれまた彼女の凄いところです)。
そして、何よりも魅了されたのはその声でした。芯があるけれどきつくなく、しなやかさと強さの両方を兼ね備えたその声はまさに「玲瓏」という言葉がぴったりだと思いました。

一通りの試験メニューが終わると、我々試験官からいくつか質問をします。廣木の履歴書に目を落とすと「特技」の欄に「テレサ・テンの『つぐない』を歌うこと」と書いてあります。そう書いてあるということは、「それを歌うことが私の自己PR」という解釈を私はして、「じゃあ、少し歌ってみてください。」と廣木に声を掛けると、何の躊躇いもなく、彼女は「何ならコブシも効かせましょうか?」とばかりにサビの部分を気持ちよさそうに歌ったのです。

「度胸」。実はアナウンサー/パーソナリティにとって一番必要なのは、これ、です。

廣木の「度胸」を測りたかったのとは別に、実際に確かめたいことがありました。
「この子はどれだけ歌が歌えるのか?」
実は2004年からK-mixとサークルK(当時)で共同開発した清涼飲料水「ちゅう」のオリジナル・ソングを、局パーソナリティとアーティストがコラボして歌い、CDも制作する、という企画をスタートさせたのですが、その第1回を担当した杉山藍が、当年度をもって退職することが決まっていて、その後任を探さなくてはいけない、というのは実は重要な懸案でした。その後任をこの子になら任せられるのではないか?とふと思いついたのです。もちろん、既にパーソナリティとしての可能性、将来性は限りなくある、ということが大前提です。廣木をマグロにでも喩えるようで恐縮ですが、「久々に大物を捕らえた。」という重い手応えがありました。

私としては、この後の役員面接と音声試験による最終選考に廣木を残しておきたい、と強く思いましたが、総務部長(現会長)から「待った!」がかかりました。廣木の筆記試験の出来が極めてよろしくない、とのこと。また「履歴書の氏名欄に記入することになっているフリガナが書かれていない。こういうちょっとしたことを疎かにする子は避けた方がいい。」とも言うのです。そこで私は「部長のおっしゃることはごもっともだが、経営陣に彼女を会わせることだけは、何とかお願いしたい。そこで彼女に魅力を感じていただくことがなかったら、それはそれとして諦める。」と直訴し、ギリギリ彼女を最終選考に押し込むことができたのです。

最終選考の結果、廣木弓子は見事内定を勝ち取りました。当時の社長(現顧問)は私にこう耳打ちしました。「彼女には『度胸』がある。」と。

(これは面白い後日談ですが、廣木が退社する際の送別会で、廣木の入社を一旦は拒もうとした現会長は、好きなギター演奏で廣木の歌のバックを務めて、まんざらでもなさそうだったのですが、これ如何に!?)

廣木の入社が決まり、2004年も押し迫った頃のことだったと思いますが、彼女はお母様と一緒に浜松の住まいの内見にやって来て、その足でK-mixにも立ち寄りました。初対面したお母様に私はこう懇願されました。
「弓子を久保田さん色に染めて下さい!」
ここにもまた「この親あってのこの娘」の一組の親子がいました。

廣木が研修で初出社した2月中旬、まず私が彼女に伝えたのは4月からの担当番組のことではなく、3月中旬に「ちゅう」のオリジナル・ソングをレコーディングする、ということでした。アナウンサーとしてデビューする前、しかも4月1日の正式入社前にシンガーとしてマイクの前に立つとは、流石に彼女も想像していなかったでしょう。
その後、彼女がGTP、櫻井大介、京太朗と晴彦、カミナリグモ、ズータンズ、kainatsu、キンカ,ウィズアヨウンという数々のK-mixアーティストたちとコラボして「ちゅう」のオリジナル・ソングを毎年発表し、挙げ句の果てに浅田信一プロデュースのオリジナル・アルバム『8281』で全国デビューするまでになったことは、以前からのK-mixリスナーの皆さんならご存知のことでしょう。

廣木弓子が入社した時、私の中には彼女の進むべきロードマップがありました。3年間、アナウンサー/パーソナリティとして一通りのことを経験してもらい、4年目を迎える2008年4月に週帯の生ワイド番組を担当してもらう、というものです。それが形となったのが「K-mix 2ストライク1ボール」でした。この番組は現場スタッフの頑張りもあって、「2010年日本民間放送連盟賞 ラジオ生ワイド番組部門 優秀賞」(最優秀賞はなし)という、K-mixにとっては初となるビッグ・タイトルをもたらしてくれました。

 

さて、ウィキペディアにも掲載されているこうした出来事が廣木の「オモテ」のストーリーだとしたら、今からお話しするのはこの「同志」と私の「ウラ」のストーリーです。

実は2004年初夏に廣木と対面するよりも約4年も前の2000年8月初めに、高校3年生だった彼女と私が接近遭遇していた、というお話です。

2005年秋、富士ロゼシアター中ホールでK-mixの公開録音ライブがあった時のことです。新人廣木はこの日見学のため会場を訪れ、イベント終了後、私の車に同乗し浜松へ戻ることになったのですが、その車中、廣木がこう呟きました。
「今日のホール、前に来たことがあるような気がする・・・。」
彼女の記憶を呼び起こすように話を聞いてみると、こういうことでした。

“高校文化部のインターハイ”とも呼ばれる全国高等学校総合文化祭。都道府県持ち回りで行われるこの大会、2000年は静岡県で開催されました。そして、放送部門の発表、審査は富士ロゼシアターで行われ、高校3年生の廣木は山口県代表として、アナウンス部門(中ホール)に出場したというのです。
実は、何を隠そう私はこの時、アナウンス部門の審査員を務めていたのです!
そこで廣木がどんな発表をし、結果がどうだったのかを聞いてみました。廣木が言うには地元のある偉人についてアナウンスしたのだけれど、他の出場者がただアナウンスするだけだったのに、彼女はプロジェクターとスクリーンを使って発表したと言うのです。
ただ、その日の内に岩国に戻らなければいけなかったので、結果発表を待たずに放送部の顧問の先生と会場を後にし、「特別賞」を受賞したことは翌日になって知った、ということでした。

さて、今度は私が4年前の記憶を呼び起こす番です。そう言われて見れば、ひとりそんな生徒がいたことをかすかに思い出しました。そこでこの数日後、当時の担当幹事であった高校の放送部顧問の先生に事情を話し、当時のプログラムや結果、採点表などが残っていたら拝見したい、とお願いし、それらを見ることができました。すると確かに廣木は特別賞を受賞していて、しかも審査員の私は彼女に高得点をつけていたのです。
私は運命論者でも、「赤い糸伝説」を信じる少女趣味も持ち合わせてはいませんが、こういうことが現実にあるのです。


廣木とはありとあらゆる種類の仕事をともにし、仕事のことで語り合うことも数限りなくありました。それは一緒に仕事をしなくなった現在でも続いています。私が彼女のことを「同志」と思うのには、私がある重要な局面で判断をしようとする時、高い確率で廣木の意見を聞いてみる、ということにも要因があると思います。廣木の意見は常に直截で明確でした。そしてこれまたかなりの高い確率で、彼女の意見を尊重すると物事が正しい方向へ動き始めるのでした。

また廣木自身も私に色々な話をしてきました。仕事のことはもちろん、プライベートなことも話してきます。例えば恋愛のこと。
こんなこともありました。ある野外フェスを一緒に観に行き、そのステージ転換の時、廣木がいきなり「今付き合っている人と別れようと思っているんですけど、どう思います?」と切り出したのです。以前から相手がどんな人なのか、私は彼女から聞かされていましたが、こんなところでカミングアウトされても、「そんなことは勝手に自分で決めてくれ!」としか言いようがないではないですか!? でも彼女は意見を求めてくれるのです。上司に自分の恋愛事情を相談する女子アナ・・・。「セクハラ」「パワハラ」という言葉が存在していなかった大らかな時代のお話です。

そんな廣木が「2ストライク1ボール」が始まって2年半が経過しようとしていた頃、私に「会社を辞めたい。」と言い出しました。色々なことが綯交ぜになってのことで、決定的な理由は正直、私にはよくわかりませんでした。私の中にはこの番組を廣木が5年間続けることが、ひとつの着地点だと思っていたので、そこまでは一緒に頑張って行こう、まだまだ一緒に仕事がしたい、とだけ話したように記憶しています。結果、彼女はK-mixで仕事を続ける決断をしてくれました。
因みにもし、彼女がこの年度いっぱいでK-mixを辞めていたとしたら、その後、彼女にとってのベター・ハーフと巡り合うことは絶対になかったと思うので、その点において、彼女は私にいくら感謝しても感謝しきれないと思うのですが・・・(笑)。

 

廣木の素晴らしさを「度胸」だけで語ってしまうのは、彼女の名誉にかかわることなので、彼女の表現の素敵さ、思いの強さについて、私が特に印象に残っている出来事をふたつお話したいと思います。

まだ、竹原ピストルが野狐禅を解散して、ソロ活動を始めたばかり、今のようにまだ多くの人に知られていなかった当時、廣木と私が別のアーティスト目当てで訪れた旧「窓枠」でのブッキング・ライブに、彼が出演し、アコギ一本で弾き語りのパーフォーマンスをしました。
その時の様子を廣木は翌日のパーソナリティ・ブログで「両足で踏ん張って立っていないと、ぶっ飛ばれそうな歌とギターだった。」と書いています。こんなにシンプルに、その時の様子と自分が受けた衝撃を伝え、それをブログを読んだ人にも共有させることができる、素晴らしい表現だと思いました。

もうひとつは、2008年11月4日、小室哲哉がいわゆる「5億円著作権詐欺事件」で逮捕された日の「2ストライク1ボール」でのオープニングでの廣木の発言です。廣木はアムラー世代であり、小室氏が安室奈美恵さんに提供した楽曲を始め、小室ファミリーの音楽とともに10代を過ごしてきました。そんな自分とともにあった音楽を世に送り出した小室氏が逮捕され、日本中が大騒ぎしている中、彼女は番組にオープニングに小室楽曲をかけて、自分なりにこの件についてコメントしたい、と私に言ってきました。
K-mixではそういう対応は取りませんでしたが、過敏に反応する放送局の中には早々と「小室楽曲のオンエア当面自粛」という判断をするところもある中、敢えて自らこの件に触れたい、というのは言ってみればひとつの“チャレンジ”です。発言内容によっては、リスナーから非難を受ける可能性もあります。
私は「廣木がしたいようにすればいい。」と言って、背中を押しました。そうして彼女は番組オープニング・ジングルが明けて流れ始めた、彼女自らが選曲した渡辺美里の『My Revolution』(もちろん、小室氏の作曲)のイントロに乗って挨拶をし、ワンコーラス流れた後でしゃべり始めました。そこで彼女が言ったことはこういうことです。

「人に罪はあるが、曲には罪はない。」

これは常々私も強く思っているひとつの信念ですが、26歳の女性の発言として、その重さは相当なものだと思いました。
結局、ここでも廣木の「度胸」「信念」が言動として形になったのです。

 

さて、最後に廣木に一番感謝したいことをお伝えし、今回はおしまいとさせていただきます。

2015年5月末から約2ヶ月間、私は体調不良で会社を休むことになり、8月に入って出社はするようになったものの本調子には程遠く、午前中だけの時短勤務をしていた時期のことです。
廣木は私のことを聞きつけて、「一緒にランチに行きましょう。」と誘ってきました。正直に言えば、食欲もあまりなく、ランチをすることで逆に廣木に嫌な思いをさせるのではないか?と思ったのですが、相変わらず廣木は直截に「ランチして当然」という感じで私を誘います。
自分で言うのもおかしいことですが、多分、当時の私に接していた人たちは、コンディションのよくない私に、どう接したらよいかがわからなかったのではないか、と思います。そんな中、廣木だけが何の遠慮もなく、何事もなかったかのように私にコンタクトしてきた、という感じです。

実際に廣木、そして5月に生まれたばかりの彼女のお嬢さんとランチをともにし、廣木が自分は食べながらも、途中で授乳している姿をぼんやり眺めてたら、気持ちの固さが解けていくような気がし、食欲がない、という感じもしないままランチプレートを完食していました。不思議な力です。

ランチの後、彼女が車で自宅まで送ってくれる、と言うのでその言葉に甘えました。自宅に着いたら廣木が「奥様にもこの子をだっこして欲しい。」と言うので、家人を玄関まで呼び出し、廣木の希望を叶えました。

何でもないことですが、改めて廣木弓子という女性の芯の部分に触れたような気がした出来事でした。


廣木がこの春から神奈川に居を移したことで、会う機会はますます少なくなりましたが、近いうちにまたランチをしたいものです。

 

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