エヴァンゲリストとしての矜恃

12月25日、20世紀を代表するリリック・テノールとして広く知られるドイツのオペラ歌手・指揮者のペーター・シュライアー(Peter Schreier)氏がドイツのドレスデンで亡くなった、というニュースを目にしました。84歳でした。長い闘病生活を続けていたといいます。

舞台で恋する若者を演じるには年を取り過ぎた。」と言って65歳でオペラの舞台から退き、リート(歌曲)のリサイタルは続けていましたが、2005年には完全に引退しました。

私がクラシックを集中して聴き始めたのは1977年頃ですが、ちょうどこの頃から1980年代中頃までが、おそらくシュライアー氏の絶頂期だったと言っていいでしょう。
“リリック・テノール”とは文字通り、美声で軽妙な歌を聴かせる役柄を得意とするテノール歌手のことです。シュライアー氏は当時その代表的存在で、舞台でもレコードでも引っ張りだこなテノールでした。当時ドイツは東西に分断されており、シュライアー氏は東ドイツ国籍でドレスデンを本拠としていました。しかしその活躍は東ドイツや共産圏の国に留まることなく、むしろ西ドイツやオーストリア(ウィーン)で大活躍していた、という印象があります。きっと彼の意思とは関係なく、東ドイツの外貨獲得に大きく貢献していたことでしょう。“音楽とイデオロギー”の問題は時代時代に色々なことを考えさせるものですが、彼はおそらく純粋に歌手として、芸術家として生きてきたのだと思います。

オペラの世界でシュライアー氏の名声を大いに高めていたのが、モーツァルトであったことを否定する人などいないでしょう。王子様、ちょっと世間知らずのおぼっちゃま、青年将校・・・。その清々しい歌声を聴かせ、凛々しい舞台姿を魅せるシュライアー氏は、理想的なモーツァルト ・テノールでした。

 

もう一方でテノール歌手、そして後年は指揮の分野までに進出したペーター・シュライアーという芸術家の大きな功績であり、多くの音楽ファンに感銘を与えたのがバッハの宗教作品であったことも衆目の一致するところでしょう。

私個人にとってはシュライアー氏は、まず第一に“バッハの魂を表現する芸術家”として存在しています。

バッハが毎週日曜日の礼拝のために作曲した教会カンタータ(現存しているだけでも約200曲)、各種祝祭祝賀のために作曲した世俗カンタータ、マグニフィカト、クリスマス・オラトリオ、マタイとヨハネの両受難曲、そしてロ短調ミサ。その多くの作品をシュライアー氏は歌い、時には歌いながら指揮を執ったのです。
中でも彼の真骨頂は『マタイ受難曲』のエヴァンゲリスト(福音史家)にありました。キリストの受難の物語をマタイ福音書に基づき、そこに自由詩のアリアやコラールを絶妙に配置した、人類が産んだ最も崇高な音楽作品のひとつである『マタイ受難曲』。シュライアー氏はその受難曲のストーリー・テラーであるエヴァンゲリストのスペシャリストでした。カール・リヒター 、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ルドルフ・マウエルスベルガーといった巨匠指揮者たちとの録音、加えて自ら指揮もした録音で聴かれるエヴァンゲリストは、過度な表情を盛り込むことを拒みながらも、聴く者に「キリストの受難」という究極の問題提起をする物語が、あたかも目前で繰り広げられているような錯覚を起こさせるものでした。特に自らが指揮した1984年録音の、無駄を一切削げ落とし、エヴァンゲリストとしての矜恃を感じさせるレコードは私にとってとても大切なものです。

実は今年の9月、ドイツを旅した時ドレスデンに4泊し、シュライアー氏が活躍したゼンパーオーパー(ドレスデン国立歌劇場)でオペラを観たり、この古都を散策したりしたのですが、旅に出ると必ずする中古レコード店巡りも欠かしませんでした。ドレスデン中心部からバスで30分ほど行った郊外に、クラシックとジャズの質の高いレコードを扱っている店があると知り、出向きました。

P.シュライアーがE.マティス(ソプラノ)と共にレコーディングしたブラームスの『ドイツ民謡集』。ジャケットにはシュライアーの写真の切り抜きが貼ってあった。

70代と思われる男性店主が一人で営むその小さな店は、私にとって宝の山のようなところでした。

決して珍しかったり、高価なレコードがたくさんある、というわけではなく、日本でも見かけるようなレコードも多いのですが、おそらく旧東ドイツ国民が社会主義政策の下、抑圧された生活を強いられた中で聴いてきたであろう東ドイツ製のレコードが、数多くストックされていました。その中にはシュライアー氏のレコードもあり、私はブラームスとバッハの作品が収められた彼のレコードを4枚購入しました。

レジで支払いをすると店主が、「シュライアーさんの自宅はこの近所だ。」と教えてくれました。単なる偶然か必然か、私は今日買い求めたレコードをこれからずっと特別の愛着を持って聴き続けるだろう、とその時思いました。

 

今夜はエヴァンゲリスト=ペーター・シュライアーの『マタイ受難曲』を聴いて、彼を偲びたいと思います。

 

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