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INTELLIGENCE

2019年も間もなく幕を閉じます。
こういう場合、このブログも2019年の振り返りとか、今年観た聴いたライブ、コンサートやレコード、CDで印象深かったもの、感動したもの、あるいは送り出し側としてやってよかったと思う番組やイベントなどを振り返ったりするのが常道なのでしょうが、このブログではひとつの出来事や人物について、「長いぞ、久保田!」とご指摘を受けるほど、その都度かなり細やかに語ってきたつもりなので、敢えてこの場でもう一度振り返る必要もなかろう、というのが正直な気持ちです。もちろん、この年末にかけて私にとって大切な人たちと成し遂げたことについては、もう少し時間をおいてからになりますが、お話しさせていただきたいと思っています。

ということで突飛ではありますが、今回は私の大学生時代のアルバイトのことをお話ししたいと思います。

今年7月5日のこのブログで、私が何故マスコミ業界に就職しようと思ったのかお話ししました。
そして大学3年生から卒業までの約2年弱続けたアルバイト生活で、大学受験をする頃から意識し始めたその思いを決定的に、そして強固なものにさせてくれた恩人との出会いがありました。

私は名古屋の南山大学文学部哲学科に籍を置いていましたが、入学当時からサークルは当時流行していた大学生ミニコミ誌の編集、発行を行う「キャンパス・ライフ」という、(今思うと)何とも垢抜けない名前の団体に所属していました。大学のことや大学周辺のショップの紹介、大学生の間で話題になっている硬軟入り混じった事柄の徹底追及、アンケート、エッセイなどなど、手書きの文章(当時まだワープロは一般的ではありませんでした)やイラスト、写真で構成されたA4サイズ32ページのミニコミ誌を3か月に一度制作し、学内で無料配布していたのです(“フリーペーパー”という言葉も当時はなかったような気がします)。
無料配布していたので制作費や印刷費は、この「キャンパス・ライフ」に広告掲載してくれるスポンサーからの広告料で賄っていました。大学近くのショップや飲食店、コピー専門店(当時はそんな商売が成り立っていたのです)マンガ喫茶の広告、塾講師や家庭教師の募集(名古屋の塾・家庭教師業界では南山大学の学生は“ブランド”だったように思います)の広告などが毎回誌面に収まりました。

そんな中、私がサークルの主幹を務めていた3年生の晩春、テレビやイベントの制作会社の方からアルバイト募集の広告を出したい、というお話をいただきました。アルバイト職種は極々簡単に言えば、中京3県のなかなか世に出てこない情報を見つけてきて、それを取材してまとめる、というものでした。その他にも番組やイベント制作の雑用的な仕事もあるとも聞きました。キャッチフレーズは「情報がお金になる」。
取り敢えず1回出稿して、様子を見てみるということになり広告を出していただいたのですが、結果的には広告効果はほとんどなかったようでした。そこで、それならお詫びの気持ちも含め自分自身ががアルバイトしてみよう、と思い立ち、1年生の後輩を道連れにして(彼はすぐに辞めてしまいましたが)、この会社の門を叩いたのです。
私は大学入学からの丸2年間レギュラーのアルバイトをしたことがなく、3年生になった時も塾講師や家庭教師に勤しむクラスメートを横目に、この年、1985年4月から始まった「夕焼けニャンニャン」を毎日欠かさず観るため、午後4時10分、4限目の授業が終わったら、5時までには下宿に必ず戻っていなくてはいけない、ということを自らの掟として課していました(これもK-mixに入社して、その後の私の人生を大きく揺さぶる原動力になったのですが、それはまた改めて・・・)。
でも、マスコミ業界を目指すのならば、そろそろそれに関連したアルバイトをしておいた方がいいのでは?という思惑が、「夕焼けニャンニャン」を毎日見なければならない、という義務感をほんの少しばかり上回った、ということだったのでしょうか。

その会社の名前は「WIN(ウィン)」。「WORLD INTELLIGENCE NETWORK」を略して「WIN」です。何とも大層な名前を付けたものだ、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、この会社名はこの会社を興した代表の企業理念、放送やイベントに必要なものが何であるか、という思いを端的に表したものだったように思います。

代表(社長)は長らく中部日本放送(CBC)でその敏腕を振るい、様々なテレビ、ラジオ番組をプロデュースしてきた加藤吉治郎氏。名古屋のテレビ・ラジオ業界に身を置く者ならその名前を知らない人など一人もいないのでは?と言われるほどの加藤氏がCBCを辞めて会社を興すということで、氏を信望する様々な職種の、そして優秀なマスコミ人が彼の後を追い、WINに入社してきました。私がアルバイトを始めた頃、社員数は7、8名だったと思います。
加藤社長は「情報の重要性」を常に口にしていました。様々な情報を収集し、それを必要としているテレビ、ラジオ局、イベント会社に、“必要とされる形”で提供することがビジネスになる、ということを強く確信し、実践していました。社長はそれを「INTELLIGENCE」という言葉で表現していたのです。そして、その情報を収集する実践部隊の人材を大学生に求め、アルバイトを募集していた、ということです。

大学生アルバイトのグループはその名も「INTELLIGENCE」と呼ばれ、そのグループ・リーダーをWINの若手社員が務めていました。
我々がどのような形で情報を集め、それをまとめていたかを簡単に説明します。

1980年代中盤、もちろんインターネットは存在していませんでした。したがって情報を集める手段は大手新聞はもちろんですが、まだ多くの人に知られていない情報という点で言えば、むしろ中京圏の市町村が発行している広報誌、限られた地区でしか配布されていない新聞やフリーペーパー、観光パンフレット、そして「人の噂話」がその重要な発信源でした。そんなマイナーな紙媒体をWINでは丁寧にかき集め、そこから「これは面白そう」と思える記事をアルバイトが見つけ出し、その事や物、人、場所の連絡先に電話をかけアポを取り、またはアポなしでいきなり訪問し、お話を聞いて写真を撮影してくるのです。リーダーに相談することもありましたが、基本的にはアルバイトが自分の感性に従って、自ら取材先を選んでそこへ向かうのです。
そしてその取材した内容を、はがきよりも少し小さい大きさの情報カード数枚に簡潔に書き込み、写真を3枚程度添付します(まだデジカメがなかった頃の話なので、フィルムカメラで撮影し、当時出始めた「30分プリント仕上げ」のDPEショップに持ち込み、すぐに現像・プリントしてもらっていました)。
カードに書き込むことは以下の3つです。

①その取材対象の客観データ(場所、名前、連絡先、料金や値段、時期など)
②その対象の「セールスポイント(特徴)」
③そしてこれが一番重要で、そこが“ミソ”なのですが、「この情報はどういう番組やイベントで紹介されれば価値があるか? 視聴者が興味を持つか? どういう切り口で紹介したら面白いか?」または「これまで集まっている様々な情報とどう組み合わせればさらに広がりができるか?」

以上をワン・パッケージにしてリーダーにチェックを受け、認められれば1点につき3,000円で買い取ってくれる、というシステムです。フィルム代や現像・プリント代は別に実費支給されましたが、交通費は出ません。ですから、名古屋市中心部で取材を済まそうが、岐阜の山奥まで行ったとしても3,000円は3,000円です。
そして、残念なことにチェックの結果NGが出て、買い取ってもらえない、ということも時にはあります。私は幸いにしてそういう経験はありませんでしたが、バイトを始めたばかりの頃、こういう出来事がありました。

名古屋市のある神社で行われる夏祭りの珍しい神事を取材して、カードにしたためて提出した日のことでした。何とこの神事を同じく取材して、カードを提出した1つ年上のバイトNさんがそこにいたのです。同じ対象を2人が取材するということが起こり、この場合、買い取りはどう行われるのか?と率直に思ったのです。リーダーは2人の提出したカードをしばらく読み比べ、こう言いました。「データは当然同じだけど、この神事をどういう切り口で扱ったら面白いか?という視点は久保田君の方が優れている。したがって、久保田君のものを3,000円で買い取って、N君のものは申し訳ないが買い取れない。」と。先ほど書いた③がいかに重要なのか?ということを端的に表した出来事でした。

また取材後に、この情報では買い取ってもらえないだろう、と自主判断し、取材をしたにもかかわらず結局提出しなかった、ということも結構ありました。言ってみれば「ハズレ」です。

例えば三河地方のある市の広報誌に、そこにに住む特技や変わった趣味を持つ市民を紹介するシリーズものの囲み記事が載っていて、ある月の号に“ビートルズ・マニア”という人が顔写真入りで紹介されていました。記事によればその30代の男性は、ビートルズのレコードをたくさんコレクションしているということ。ビートルズだったら私も好きでそれなりの知識もあるので、話が弾んでいい取材ができるのではと思い、市役所を通じてその方と連絡を取り、とある日曜日の午前にご自宅へ伺うことにしました。
リビングに通されて早速取材スタートです。まずはコレクションしているレコードを見せて欲しい、とお願いしました。てっきり私は別室にコレクション・ルームのようなものがあってそこに案内されるのかと思っていたら、彼は「ちょっと待ってください。」と言って立ち上がり、リビングを出ていきました。30秒ほどで戻ってきた彼は10枚ちょっとのLPレコードを抱えていました。それらは当時の東芝EMIからリリースされていた現行の日本盤、デビューアルバム『PLEASE PLEASE ME』からラストアルバム『LET IT BE』までの12枚のオリジナル・アルバムと編集盤の『MAGICAL MYSTERY TOUR』の13枚でした。不意を突かれた私は「お持ちのレコードはこれで全てですか?」と聞くと「そうです。」との返事。私は300字程度の広報誌の記事から1960年代の初リリース当時の貴重な初版盤、ブートレッグ(海賊版)、シングル盤、そしてレアなビートルズ・グッズなどが次から次へと目前に迫ってくるのだろう、と勝手に想像していたので、「やれやれ・・・。」と思いました。そしてこの時点で時間と交通費を浪費したことを後悔しましたが、形式上、最後にひとつの質問を彼に投げ掛けました。「ビートルズの曲の中で一番好きな1曲は何ですか?」と。『YESTERDAY』というのが、彼の答えでした。別に超有名曲である『YESTERDAY』が一番好きだという人は、ビートルズ・マニアではない、などと言うつもりはありませんが、こちらとしてはヒット・シングルではなく、アルバムに収められた“陰の名曲”  のタイトルが聞けるのでは?と微かな期待をしていたのですが、それも木っ端微塵に砕かれ、完全な白旗状態となってお宅を後にしました。

とまぁ、そんな苦い経験も含め、私はとにかく会社に行って何か面白そうなネタはないかと広報誌やフリーペーパーを眺め、その中からマスメディアであるテレビ等に取り上げられるにふさわしい、または可能性のありそうな記事を見つけては取材に出掛けました。多い時には月に30本近い情報を買い上げてもらうこともあり、そのアルバイト料のほとんどはレコードと哲学書に姿を変えていきました。
また何よりこのアルバイトが素晴らしかったのは、自分の時間で仕事に取り組めること、そして必要以上に人間関係に縛られることがなかったこと、そして確率は必ずしも高いわけではありませんでしたが、自分が取材して提出したカードや写真がきっかけとなり、取材対象が実際にニュースや情報番組で取り上げられ、プロのしゃべり手とカメラマンたちによって表現される、ということにあったと思います。
CBC、そして中京地区を代表するアナウンサーであった(現在でも!)小堀勝啓さんがメインMCを務めるテレビの情報バラエティ番組で、私が取材した瀬戸市の蔵に今でも眠っている「MADE IN OCCUPEID JAPAN(占領下の日本製)」と書かれた本来の瀬戸焼とは異なる、アメリカ人が好みそうな極彩色の和柄の輸出用陶器の数々が、画面いっぱいに、そしてズームアップで紹介された時の感動は今でも忘れられません。

WINではこうしてジャンル別に整理された数千の情報を、テレビの情報番組やバラエティ番組用、ゲスト・ブッキング用、ロケ地の選定などのために、テレビ局やイベント会社の求めに応じてセールスしたり、自ら番組制作をし、テレビ局に持ち込んだりしてビジネスをしていたのです。

 

これはINTELLIGENCEでのエピソードではないのですが、ビートルズ・マニアを取材した時と同じくらい、今となっては超弩級の笑い話があるので、お話しします。

名古屋のあるテレビ局が中京地区最大級の住宅展示場をオープンすることになり、そのオープニング・イベントをWINが受注しました。私はそのスタッフに加わり、イベント内容について社員の皆さんとミーティングを重ね、ある企画の担当になりました。それは展示場内に朝市を持ってきてしまおう、というものでした。「衣・食・住」の「衣」を除いた2つを融合させ、“豊かな生活”のシーンを演出しよう、という狙いです。
私は早速愛知県内で活気のある朝市の情報をリサーチし、とある三河地区の町の神社で定期的に開催されている朝市に狙いを定めました。とにかく様子を見に行ってみよう、ということになり、その神社に足を運びました。平日にもかかわらず、神社は人で溢れ返っていました。野菜、果物、乾物などの地場産品が所狭しと並べられ、これを展示場に丸ごと持っていったら大層見栄えもし、人もたくさん集まってくるだろう、とイメージが膨らみました。
しかし、この朝市は誰が、あるいは何という組合や組織がやっているのか、という情報が全くありませんでした。そこで出店していた年長のおじさんに、この朝市を仕切っているのは誰か?どこか?と聞いたら「ここへ行けばいい。」と言われ、簡単な地図を書いてもらいました。神社から歩いて4、5分のところにその事務所はありました。外見は普通の一軒家です。ドアホンを押し「朝市の件で伺いたいことがあるのですが。」と言うと、ドアを開けてくれ、中に入ることができました。
そこは20畳ほどの事務所でしたが、入った瞬間、これはまずいことになったな、と直感しました部屋の奥の壁には立派な神棚、そして四方の壁に血判状の数々・・・。そこは暴力団の事務所だったのです。ここで怯んではいけない、と思い、住宅展示場で朝市をやりたい旨、テレビで見るのと全く同じ風貌の組員に話をしたら、「今日はこのまま帰った方がいいやろ。」と言われ、私は「そのようですね。」と言って事務所を後にしました。地元の神社と暴力団が手を組んだ朝市。「反社会的勢力排除条項」という言葉が存在しない時代の話です。

 

加藤社長は常々我々アルバイトに、放送局で働くためのテクニック(技、術)を今覚える必要はない。一番大切なのは“感性を磨くこと”だ、と言っていました。テクニックは実際に放送局に入れば自然と身につく、と。この言葉は、現在ひとつのラジオ・ステーションの編成制作を預かる立場になっている私にとっては、金言だと思うものです。
テレビにしてもラジオにしても、放送局では昔から“上下関係”を重視した“徒弟制度”のようなものがあります。例えば「まずはAD(アシスタント・ディレクター)として先輩のもとで放送現場の何たるか、番組制作の何たるかを体で覚え(結局、それは単なる“雑用”にしか過ぎないことが多いのですが)、経験を積んで(例えば3年とか5年)から、やっと小さな番組のディレクターをやらせてもらえることになる、というような図式です。先輩ディレクターの中にはADに無理難題を押し付け、ADもADで何とかそれを実現して自分を認めてもらおう、と思い、物理的にも精神的にも無理をして、結果よりもそうした苦労をしたこと自体に達成感を感じる、といった実に無意味なことが日常茶飯事だったりするのです。
先程、神社の神事の情報のお話で名前を出したNさんは、卒業後熱望していたテレビ局には就職できず、とあるテレビ局が100%出資している制作会社に入社しました。彼が入社した年、私が大学4年生の夏休みに久しぶりに会った時、彼は先輩ディレクターから真夜中に電話があって、明日の朝までに消しゴム付きの鉛筆を50ダース用意しろ、と命令され、それを如何にして成し遂げたか、という武勇伝を嬉々として語ってくれました。率直に「哀れだな。」と思ったものです。これは決して極端な例ではありません。“感性が磨かれる”とは程遠い作業が繰り返され、ただただ形式だけの番組制作が行われ、その結果生み落とされる番組が次々と世間に晒されていくことになるのです。
そして私が身を置くラジオ業界でも、こんな旧態依然とした伝統がまだまだ残っていて、それは大都市圏に行けば行くほど顕著のように思います。私も時々そんな世界に置かされたラジオ制作マンに出会う機会がありますが、目の前がパッと開けるようなアイデアや感性が、彼らから披歴されることはほとんどありません(もちろん、立派なラジオマンもいらっしゃいますが)。

幸いにして私が入社したK-mixにはそんな風潮はなく、私自身入社して仕事としてADを務めたことは一度もありません。もちろん先輩ディレクターの仕事ぶりを見学することはありましたが、それはあくまでも “見学”です。先輩たちは「見て、感じて、慣れろ。」と口々に言っていました。

 

話をWINに戻します。
大学4年生になる前の春休み、私は社長に声を掛けられ、年度が変わったら「マスコミ塾」なるものをWINで主催するので参加してみないか?と言われました。この「マスコミ塾」は毎週1回、マスコミや芸能界のプロが講師になって、マスコミ志望の大学生を対象に10数回程度の講義を行う、というものでした。講師には加藤社長とともに番組を作ってきた“天才”上岡竜太郎さんなども名を連ねていました。受講料がいくらだったかは忘れましたが、結構な額だったと思います。社長は私に「久保田君とK君は受講料を支払わなくていい。」と言いました。K君とは同じINTELLIGENCEのアルバイトをしていた名古屋大学に通う同学年の仲間です。精悍な顔つきで髭をたくわえた彼の探してくるネタは、他の人が見つけ出すものとは違って、その情報もとても多角的で多層的でした。10数人いるアルバイトの中では、どう見ても断トツです。
「マスコミ塾」は参加してみて分かったのですが、マスコミで働くための術を教えるものではなく、講師の皆さんが語ることは、どういう視点や切り口で世の中を見るべきか?ということがそのほとんどでした。加藤社長のポリシーが土台にあってこそのセミナーだったのです。

マスコミ塾が開催されていた頃、私は社長にこう尋ねられました。「名古屋のテレビ局で一番行きたいのはどこだ?仁義にもとるので5局全部は無理だけれど、1局だったら君をその局のそれ相応の人に紹介できる。」と。私は「中京テレビです。」と即答しました。テレビ東京系のテレビ愛知を除けば後発局であった中京テレビでしたが、型に捕われない演出(先発局では絶対やらないような、ちょっと力技的演出)が溢れた番組を作っていたのと、音楽番組が他局と比較して多かった、というのがこのテレビ局に入社したいと思った理由です。
もちろん、この時点でテレビ局だけをターゲットにしていたわけではなく、新聞社、出版社も考えていたのですが、社長のこの言葉はうれしかったです。そして私は中京テレビの人事部長を尋ね、挨拶をさせていただきました。私は一般の志望者と同じように応募書類を提出し、筆記試験や一次面接を受け、結果、最終役員面接まで進みました。最終面接は役員数名の前で、5、6人の学生が与えられたテーマについて討論する、といった当時流行っていた「ディスカッション面接」でした。誰が主導権をとってそのディスカッションを進めるのか?必ずしも主導権を取ることが有利とも言えない、等々ギャンブルのような試験です。

結果は残念なものでした。

今思うと私に実力や適性があったわけではなく、加藤社長の薦める学生だから最終までは残しておこう、ということだったのかもしれません。結構落胆しましたし、他の企業から内定は出ておらず、大学の後期日程が始まったら、しばらくは卒論制作にシフトしようかな、とも思い始めました。
実は8月下旬にK-mixの会社説明会に出席し、同日行われた一次面接も受けたのですが、その後全く何の音沙汰もなくなってしまい、落ちたのか残っているのか、現状自分がどんな状態に置かれているのかがわからない、という事態が11月中旬まで続き、その間K-mixのことは頭の中から消え去っていました(K-mixのこの採用試験のあれこれは、また改めてお話しします)。

そんな時、手を差し伸べてくれたのも加藤社長でした。「もし、どこからも採用通知が来なかったらうちが雇うから、後悔しないよう最後の悪あがきをするがいい。」と。そしてこう続けました。「一応うちも会社だから採用試験をする。今度会う時に『もし世界が核戦争に突入し、明日核シェルターに入ることになった時、シェルターに持っていく10曲の音楽と10冊の本』を紙に書いて持ってきてください。選んだ理由は書かなくていい。私はそれを見ればその人がどんな人か、君に限らず分かるから。」実はアルバイト仲間のK君も同じことを社長から言われたと聞きました。後日10曲と10冊を書いた紙を社長に提出すると、「あんまり、面白くないなぁ。」と言いながらも、「試験は以上、内定。」と私を見て社長は言いました。

11月中旬になり、全く音沙汰のなかったK-mixから筆記試験を行う旨の通知が突如来て、それを通過し、役員面接が行われ、結果、12月初旬に私は静岡エフエム放送株式会社から内定をいただくことになりました。

一方、K君は見事NHKから内定を勝ち取りました。彼の夢は「NHKスペシャル」、つまり超一級のドキュメンタリー番組を制作することでした。私が心から誇りに思うK君については改めてお話しします。

 

1987年1月、加藤社長はK君と私の就職祝いの食事会を催してくれました。WINの近くにあるこじんまりとしたお寿司屋さんに社長と私たち2人、そして社長の懐刀ともいうべきWINの幹部、加藤正史氏と野口佳久氏も一緒でした。
店を出る時、社長は「明日の朝が食べ頃だから。」といって太巻きのお土産を持たせてくれました。そして、「大人の社会人の嗜みだから。」と言って近くのワンショット・バーに私たちを連れて行き、「ドライ・マティーニを一杯だけ飲んで帰ろう。」と言ったのです。


何から何まで完璧で、“憧れの放送人”とはまさしく加藤吉治郎、その人であったと思います。

 

翌年、入局、入社1年目のK君と私は「第2回マスコミ塾」の講師として招かれました。加藤社長から「2人の実体験を学生に語って欲しい。」と言われたのです。
久しぶりに訪れたWINのオフィスで、キャリア・ウーマンを絵に描いたようなWINの女性スタッフ、Yさんに「久保田君、仕事がない時なんか、テキトーに会社、休んじゃったりしてるんでしょ!」とか言われ、「そんなこと、あるわけないじゃないですか!」と私が言うと「冗談だってば!」と明るく笑い返す、そんな雰囲気に接すると、ここで過ごした2年弱はどれだけ幸せで、どれだけ自分の糧になっているだろう、と心から湧き上がってくる感情があり、あれから30年以上経った今でも、あの2年弱がなければ、今の自分は存在しなかったのだろう、と強く思うのです。

残念ながらWINはその後解散してしまいましたが、加藤社長は今でも名古屋を中心にメディア・プロデューサーとして活躍されています。

 

私が放送業界で最初に出会った真のプロフェッショナル、そして恩人、それが加藤吉治郎氏です。

 

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